三宅さんとありまよさんと『虎に翼』中間報告&『燕は戻ってこない』スペースをした。『虎に翼』もかなり込み入った週が直近だったため、過去一内容が濃ゆいスペースになったと思う。『燕』はいろんな意見があり、お二人とも私とは違う解釈だったけど、すごく勉強になった。参加してくれた皆さんありがとうございました!
というのを踏まえて、私が『燕』の最終回でなにを感じたのか、改めて書いてみる。
私があの最終回を見た時、いちばんに考えたのが「どうしたらリキがぐらを連れ去らずにすんだのか」ということだ。独身の私はもちろん子どもがいない。妊娠も出産もしたことがないから、想像するしかないのだが、リキが子どもを連れ去ったのは母性によるモノではないと思った。いや、正確にいうと、自分がお腹を痛めた子が可愛くなってきたという気持ちはもちろんあるだろう。ただ、リキを突き動かしたのは純粋な母性ではないと思った。代理母をした自分がただ子どもを“産む機械”ではないと主張するために、リキは子を連れ去ったように見えたのだ。
私は『燕』が3、4話くらいのころに一度コラムを書かせてもらっている。同じ2024年春に始まった『虎に翼』の100年先くらいの物語でありながら、寅子のように「はて?」を持たない、いや持つことができないリキたちの生々しい物語に唖然とした。昨今は貧困問題、特に若い女性の貧困問題を扱うドラマが増えてきたが、貧困とは物理的な意味だけではなく、「数ある選択肢を持てない」「最善な選択があるにも関わらずそこに辿りつけない」「正しい情報にアクセスできない」ことこそが“貧困”だと描く『燕』に衝撃を受けたし、マジでその通りだと思った。
私は『燕』を見る以前から、“貧しさ”とは多くの選択肢を持てないことだと思っていて。『おいハンサム‼︎2』最終回で、選択肢が多くても悩みすぎることがあるよ〜選択肢が少なくても幸せなんだよ〜と言ってくれたときには、なんか自分の中のつかえを取ってくれたような気がした(でもどこかで選択肢が少ないことは不自由だと思っている自分はいる)
そんな私が見た『燕』の最終回は、やはり“選択肢”の話だった。リキは基から「子どもたちの面倒を一年見てほしい」という打診をされる。つまり、リキにはそれを「受諾する」「拒否する」という二つの選択肢が与えられていたのである。しかし、悠子と基の復縁により、その選択肢は失われた。リキの手のひらには依頼主である草桶夫妻の決定だけが残り、口を挟む余地もない。そのことがリキは腹立たしたかったのではないか。たとえ自分が子どもと一緒に過ごす未来を選ばなかったとしても、選択肢を取り上げられたことが惨めだったのではないか。自分はそんな理不尽さを黙って受け入れる機械ではない。女は産む機械なんかじゃない。自分は一人の人間なんだという叫びこそが、リキを突き動かしたのではないかと思うのだ。
もし悠子があんな形で復縁しなかったら、リキは子を連れ去ることなんてしないと思っていたけど、でも衝動的なリキのことだからわからない。ただ、いまよりはもうちょっと、穏やかな結末になっていたかもしれないなぁと思った……が、スペースでみんなと話してみて、いや、そんなこともないのかなと思った。
草桶家の恐ろしいところは、愛磨がいなくて一瞬は慌てふためくものの、「まあ一人いるからいいか……」となりそうなところである。(悠子は「やっぱりリキさんにも母性が湧いたのよ。もともと双子なんて望めなかったんだから、私たちは悠人を精一杯愛せばいいじゃない」とか言いそう)双子ちゃんを見ながら恍惚とする悠子が、第一話でマチューを眺めたときと同じでほんま怖かった。
『燕』が最終回を迎えたころ、『虎に翼』は絶賛寅子頭打ちまくり週で、ヒロインを非難する声の方が強かった。全く共感できない、ヒロインの気持ちがわからないとネットが荒れる中、『燕は戻ってこない』っていう誰にも共感できないがおもしれードラマがあってじゃな……と、たびたび『燕』のことを思い出した。私は、自分の人生においてなぞることのできない別ルートを辿れることが、フィクションの醍醐味だと感じていて、『燕』はまさにその真骨頂である。誰に感情移入できるかを重要視するのではなく、自分の芯はなにかを問われつづける物語だった。